魔法使いより
実を言うと、物心ついた頃から書くということに呪われていたように思う。
自由帳一冊を1日で書き潰した日々には、母に怒られた。
作文の授業ではものの数分で書き終えることに誇りを持った。
かといって、書くという才能はついに誰にも知られる由もなく死のうとしている。
これはまごう事なき呪いである。
だから私は、
―せめて私が心より愛する人たちへ
書くとはこれほどまでに素敵な魔法なのだと見せたい。
「私」
「自分のことは、誰よりも自分が知っている」
確か昔、会社の先輩がそんなことを言っていたような。そして、私もそう思う。
さらに言えば、私には人一倍その自信がある。
その理由は、私が真面目だからだとか、MBTIで提唱者タイプ[注1]だからだとか、エニアグラムで調べる人タイプ[注2]だからとか、そういったカテゴライズの話ではない。
そうではなく、自分自身の心だけは唯一、見透かせるからである。
[注1]理想主義で思慮深く、人の心や物事の背景をじっくり考えるのが好きな傾向
[注2]知識を求め、物事を客観的に観察・分析する傾向
他人の心であっても、気心の知れた仲間であったり、あるいは自身の感受性が高まっていたりすれば、見えない心の一端が見えることもある。
しかし、どんな理論や言葉を持ったとしても、そのすべてが見えることはないのだ。
一方で、自分の心はその胸に手を押し当てるだけで見ることができる。
だから私はここに私を書きたい。
ただ自己紹介をしたってつまらないし、先ほども言った通り、それを読むのは「他人」であるあなただからだ。
果たして、文字だけで「私の輪郭」を描けるのか。私はそれを試してみたい。
どうかこの先続く話から、私の心を見てほしいと思うばかりである。
これはまあ、随分と贅沢なお願いである。
「時間」
いつからだろうか。
胸ポケットに入れたはずの”時間”が無い。
どうやら失くしたらしい。
「いや、そんなはずは。」と記憶を辿ってみると、ちゃんと予定を後回しにして怠惰に過ごした記憶がある。
どうやらだらだらと浪費してしまったらしい。
そんな時間に対してふと思うことがあった。
長く生きていると、ある日「時間の定義が変わった」というニュースが目に留まった。
彼の存在はあまりに酸素のようにそこにあったから考えたこともなかったが、酸素という「物質」の当たり前と、時間という「概念」の当たり前は、似て非なるものだった。そう、時間とは概念であって、物質ではないのだ。
「日時計」というものがある。
小学生の頃の授業に出てきた気もするし、どこかの駅前のオブジェで見たことがある気もする。
即ち、太陽が作る影が時間を指し示すのである。
つまり、地球が自転する一周を一日としている。
正確には、「過去していた」というのが正しい。
非常に合理的で素晴らしい定義だと思うと同時に、「そうだそうだ、人が人の営みのために設けたものだった」という当たり前で気にも留めなかった事実に正直驚いた。
だって我々は、CPUのクロック周期はいくつだの、計測器のサンプリング周期はいくつだの、アプリケーションの更新周期はいくつだの、それだけではなく心拍数ですら時間という物差しで常々考えている。
何か閃きを得ようと歩き、走り、休み、その度に「これはどうだ。速いぞいいぞ。遅いぞダメだ。」なんて思ったりもしてきた。
だから今私は、こんなにも「時間」を忘れたい。
この世の法則が時間という一軸によって上手く要約されて、綺麗に解釈されてきたことへの感謝はしているのだ。
だからこそ、今一度「物質」とやらがどんな次元でその特性を表現しているのか、時間というサングラスを外して見てみたいのだ。
「いつからだろうか。 物差しに使っていたはずの”時間”が無い。」 その世界で人は、何を経て生涯を閉じるのだろうか。